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日本100名城 22 八王子城& 23 小田原城【第61想】

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GWはいかがお過ごしでしたか?ふぃくすです。

10連休とは言え、仕事によっては全く関係ない方も多数いると思います。おじさんそんな方に感謝しつつ10連休させていただきました。とは言え、実家に帰省なんてしませんでした。そもそも今の家から実家まで1時間あればついちゃう距離だし。だがどこか出かけないとなんか勿体無い気がしていたので、ここはあれだ!!

100名城巡りだろ!

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八王子城

八王子城は北条氏の本城である小田原城支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である。深沢山は華厳菩薩妙行延喜13年(913年)に山頂修行した山で、修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。
縄張りは北浅川南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 – 3 kmの範囲に及び、山の尾根など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつものを配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体があまりに広大であったため、落城時には未完成であったと言う説もある[要出典]
城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があった。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。
八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。史跡に含まれていない区域は霊園私有地が入り組んでいるため、住宅地の中にも多くの遺構を確認することができる。

八王子城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/八王子城 より

ということで、職場に近い八王子城。休みなのに仕事に向かう電車に乗るってのもなんかモヤモヤするわけですが、ちょうどお墓まいりシーズンにぶち当たったタイミングでもあったため、移動時のバス停にはすんごい人がいた。複数の路線が1つのバス停に止まるせいもあって、本当にこのバスで大丈夫??とかいう感じになるけども、城跡のところまで行くバスは比較的空いてます。

天守がないので、城に来た感は薄いかもしれないけども、石垣や堀切などがあり、まさに城であったと感じるところでした。

意外と広かったというより本当に山だ!人が少ないのもあって、ハイキングには良いところでしたよ!!

蚊に刺されたけどな!4月なのになっ!

小田原城

そしてGW真っ只中、近場と言えるお城!小田原城です


北条早雲氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートル土塁空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。

北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根関所を幕府から預かる立場であった。
なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)がある。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した

小田原城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原城 より

先日行った八王子城の城主である氏照の初代。早雲のお城というか北条氏の本城とも言える小田原城。もうガキの頃から何回もきてるよ。箱根行くときとか小田原で乗り換えるから鈴廣のかまぼこ食うついでに出店わーいするためによくきたよ。100名城のスタンプ集めを始めて城目的で小田原来たのは初だねぇ

祝日とは言え、そんな人いないだろうと思ったら、「北条五代祭り」とがっつり被ってた。運がいいんだか、間が悪いんだか・・・ゆっくり見て回りたいなぁと思っていたので、これはゆっくりどころではないんじゃないかと。

ファンフェスTが俺だが、俺こんなに不健康だったとは思わなかった。

それにスンゲー天守見学待ちに人がいた。スタンプは天守の1階にあるので、これ並ばないとダメなんかな〜とふと警備のおじさんに聞いてみた。

俺「スタンプだけって人も並ばないとダメですか?」

おじさん「いやどうぞ〜」

まさかの素通し。スタンプをもらいに行ってみると受付のおばさんがてんやわんやでスタンプくれと言ったところ投げるように渡され俺若干オコ。まぁ押そうかな〜と思った矢先見学から戻って来た団体っぽい人に押されてスタンプが・・・

こんなことに!!!これは激おこしてもいいんじゃないか?!

とりあえず、天守はまた来れるしその時でいいかな〜と、ふと目に入った自然薯棒なるものを!

ふわふわだったお!!

うんすごい人・・・そして小田原城でも・・・

蚊に刺されました。どういうことやねん

次は・・・

というわけでGWは2つのお城を巡りました。残り関東圏内で日帰り出来そうなお城といえば

の3つですな。佐倉は、昔仕事行くときの横須賀線で迂闊に思いっきり爆睡してたどり着いた所という思い出。その時は遅刻というレベルではない遅れだったので休みましたが、あまじょっぱい思い出だなぁ〜

多分佐倉城に次行きます!!

↓スタンプ帳はこちら↓

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